書籍発行のお知らせ

弊社代表の田渕直也の最近の著作についてご紹介します。

ファイナンス理論全史』ダイヤモンド社

モダンポートフォリオ理論からブラック=ショールズ・モデル、行動ファイナンスまで、ファイナンス理論の発展の歴史とその意味を余すことなく解説します。無為乾燥に見えるファイナンス理論も、その背景を知ることで、金融マン、投資家にとって実に示唆に富むものになるはずです。

金融の基本』日本実業出版社

金融の基礎を押えるための入門書ですが、わかりやすいだけでなく、実際の金融市場の実情や金融の本質的な部分を理解できるような解説を心がけています。

「不確実性」超入門』日本経済新聞出版

好評いただいた単行本(ディスカヴァー・トゥエンティワン出版)の文庫版です。新たに書き下ろした章も加わっています。

株式投資の思考法と戦略』日本実業出版社

個人投資家向けの投資本です。奇をてらわずに、王道的な投資のテキストブックとなっています。

デリバティブの基本』日本実業出版社

弊社代表の原点ともいうべきデリバティブのテキストブックの最新版です。LIBOR公表停止後のデリバティブ実務を踏まえ、マルチカーブ評価やXVAなどを含め内容を一新しています。もちろんスワップの時価評価や条件決め、ブラック=ショールズ・モデルの導出方法や意味まで、やや応用的な内容も含めてデリバティブ理論の全体像を実務の言語でしっかり解説しています。

まぐまぐ大賞受賞!

このたび有料メルマガ『田渕直也のトレードの科学』が、まぐまぐ大賞2016MONEY VOICE賞に入賞しました。

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新刊の発売について

2015年7月25日、新刊が発売されました。

「だからあなたは損をする 投資と金融にまつわる12の致命的な誤解について」

ダイヤモンド社

 

アマゾンはこちら

通信教育口座開設のお知らせ

シグマインベストメントスクールで、eラーニング講座「行動経済学で学ぶトレード心理と戦略コース」を開講しました。マーケットの本質と、長期的成功をもたらすトレード手法に迫ります。

http://www.sigmabase.co.jp/correspondence/course_top2/bt2.html

新聞連載のお知らせ

2014年6月26日より8月いっぱいまで、日経産業新聞のビジネスQ&A「レクチャー」欄を担当することになりました。タイトルは「金融がわかる」です。原則、毎週月曜日から木曜日まで、前30回の予定です。

新刊本のお知らせ

2014年2月22日

「入門 金融のしくみ」

日本実業出版社

が発刊されました。

新刊本のお知らせ

2013年10月20日

「実践金融 証券化のすべて」

日本実業出版社

が発刊されました。

「田渕直也のトレーディングテキストブック」始めました

シグマ・インベストメントスクールの清水学長が運営する個人投資家向けブログに、「田渕直也のトレーディング・テキストブック」の連載を始めました。以下をクリックしてみてください。

田渕直也のトレーディングティストブック

 

2013.8.13

日銀新金融政策の衝撃

“衝撃と畏怖”作戦の成功

 4月4日、日銀が金融緩和を決めました。事前の予想を大幅に上回る内容、規模で、大変なインパクトをもたらしました。「バズーカ砲」とか「“衝撃と畏怖”作戦」などと評されるに値するものです。就任からわずかな日数で、これだけ大胆な政策を決めることが出来た黒田新総裁に対して、市場参加者は一様に強烈な印象を受けたことでしょう。

 以前から日銀の新体制については、「レジームチェンジ」とか、「異次元の金融緩和」などとおどろおどろしい標語が飛び交っていましたが、実際の決定はそうした標語に全く反しないものです。

 金融政策の誘導目標を金利から資金量に変えたことについては、1979年、FRBの議長に就任したポール・ボルカーが導入した革命的な「新金融調整方式」を彷彿とさせます。すでに金利誘導は、ほぼゼロ金利が続く中で形骸化し、量的金融緩和政策の枠組みは出来ていましたが、はっきりとそれを目標に据えることで、今までの枠組みとは全くスピード感の異なる量的金融緩和を実施することになります。

 この量的緩和の規模とスピードの凄さは、添付したグラフを見れば一目瞭然です。(ここでは量的緩和の指標として中央銀行の資産総額を示しています。縦線で区切ってある右側が今後の予想です。グラフのスケールは、概ね日米の名目GDPに対する比率に見合うように調整してあります。)

日米中銀バランスシート.xlsx

 

金融政策でデフレ脱却は可能か

 さて、そもそも量的金融緩和によってデフレ脱却は可能なのかという議論自体が、黒田バズーカの衝撃によって吹き飛んだ感があります。ただ、ここはいったん冷静になって議論を見直してみましょう。

ゼロ金利制約化での量的金融緩和が、景気の浮揚やインフレ期待の醸成にほとんど効果がないということは、旧日銀が主張し続けてきたことでした。これは、過去の金融政策の実証的見地からもほぼそのように見られています。

 量的金融緩和については、先ほどのグラフの通り、実は旧日銀は名目GDP比のバランスシートで見て、米国をはるかに上回る量的緩和を続けてきたのです。リーマンショック後にFRBが急激にバランスシートを拡大させたその後は、白川日銀はFRBに遜色ないスピードでバランスシートの拡大を実現しています。しかし、白川日銀のもとではデフレ脱却の兆しは生まれませんでした。

 効果のなかったこの量的緩和策のスピードを上げるという政策によってインフレ期待が高まると考えるのは、そうした流れで見るととても根拠のあるものとは思えません。白川日銀が何もやらずに手をこまねいていたとか、あるいはせいぜいトゥー・スモール、トゥー・レイトな政策しかしてこなかったと酷評され、一方で黒田日銀は革命を起こしつつあると評されるのは、いささか理不尽な気もしないではありません。

 それでは、先の議論に立ち戻り、本当に金融政策でデフレ脱却は出来ないのでしょうか。私は、出来ると思います。私は、まじめで優秀な白川さんが不当な評価しか得ていないことに心から同情していますし、白川さんがおっしゃることは大体において正しい議論であると思っています。ただし、金融政策によってデフレ脱却を実現することは、条件付きながら可能であると私は考えます。(このあたりは、以前東洋経済の「オール投資」に寄稿させていただいたことがあります。)

 条件とは、まずはタイミングです。デフレ要因が山のようにあってインフレ要因が全くない中で、いくら量的緩和を行っても、安全資産が買われるだけでインフレにはなりません。ただ、今回は以前とは事情が異なります。貿易収支の赤字化、為替の円高トレンド反転、中国の安価な労働供給の減少(ルイスの転換点の通過)、不動産価格の下げ止まり、世界的な恐慌の回避、などデフレ要因は着実に弱まってきています。

 もう一つの条件は、インフレが起きるまで中央銀行が出来ることをすべてやり続けると人々が信じることです。白川さんは「副作用に注視して・・」とか、「日銀だけでなく政府の役割も重要・・」などと議論としてはとても正しものの、人々にはわかりにくい(理解できないという意味ではなく、インパクトがないという方が正確だと思いますが)言い方に終始したために、人々の気持ちを動かすことができませんでした。白川さんの面目のために言い添えると、中央銀行が人々の気持ちを動かすことによって政策目標を追求するようなことはすべきではないというのが白川さんの矜持であったと思います。

 一方で、黒田さんは、就任のタイミングが良かったことに加えて、人々に「日銀は今度は本当に何でもやるぞ」と信じ込ませることに成功しました。まさに期待に働きかける金融政策です。

 「デフレは貨幣的現象である」というのがマネタリスト的見地です。しかし、少なくとも現在までの日本の長期デフレは、量的緩和によっては脱却されませんでした。デフレ期待が染み付いている限り、お金を供給しても経済活動には結びつかないからです。黒田さんのレジームチェンジは、そうしたデフレ期待を払しょくしつつあり、それが今回ばかりはデフレ脱却が可能だと考える理由です。結局、「デフレは心理的現象」ということだったのではないでしょうか。

 いったんインフレ期待が醸成されれば、それが円を押し下げて輸入インフレを促したり、資産価格の上昇によって実際の経済活動を押し上げたり、様々なフィードバック効果が働きます。

 市場も“期待”で動きます。事実の積み上げは市場を少しずつしか動かしませんが、“期待”の変化は大きなトレンドを生み、相場水準を一変させます。

 現実の経済や市場の中で期待がこれほど大きな役割を果たしているのに、伝統的な経済理論や金融理論では期待をあまり大きくは扱っていません。伝統的理論が、現実的問題のの解としてあまり役に立っていないとしばしば言われるのは、まさにそこに原因があると思います。

 しかしながら、期待は全く捉えどころのない存在です。期待はある時突然に大きく変化します。そして、期待は思い通りに制御することが難しい存在でもあります。期待の変化を事前に予測することもできません。

 リスク管理的にいえば、だからこそ不測の事態、期待が大きく変化して状況が一変してしまうような事態に備える必要があるのです。

 

日本の行方を左右する大きな賭け

 いずれにしろ、伝統的金融理論の枠組みの中で誠実に自らの役割を守り続けた古き日銀が消え去り、新しい日銀のもとで制御困難な期待に働きかける金融政策がとられることはまさに革命的な出来事だと思います。この政策転換は、デフレの長期化という課題に対しては必然的なものだったとも言えます。しかし、その先に何が待っているのかは見通すことが困難です。

 私は新日銀が、人々の期待を思い通りに操り続けることが出来るとは思いません。

 たとえば、白川日銀のもとでは、どれだけ緩和をしても円高基調が続いていましたが、今回のレジームチェンジをもたらした安倍政権の誕生後、“期待”の変化によって為替レートのトレンドが大きく変わっています(二番目のグラフ)。現在の円高修正は急激な動きで、過去これに匹敵するのは1995年の円急騰の反動局面くらいしかありません。過去ずっと続いてきた長期円高トレンドが完全に逆転した可能性もあります。

ドル円長期推移.xlsx

 もしそうなら、それをたとえば90〜100円程度の適度な水準に維持し続けるなどといったことが可能であるとは思えません。歴史的トレンドの逆転なら、今後円は(長期的に見て)下がり続けることになるでしょう。

 財政問題についても、今回のレジームチェンジが解決してくれると考えるのは早計でしょう。金融政策によってインフレ期待が高まっても、財政問題を解消するほどに税収(だけ)が増えることは考えられません。

 日銀が国債を買い続けることによって、当面は国債危機が表面化するリスクはほぼなくなりましたが、実際にインフレが2%以上になったらどうするのでしょう。日銀が国債を買い支えなくなれば、(たとえ財政危機が表面化していなくても)人為的に支えられてきた国債が暴落するのは必至です。国債の民間投資家が痛手を被れば、国債の消化が困難になり、日本の財政問題に焦点が当たらざるを得なくなります。それを防ぐために日銀が国債を永遠に買い続けるのでしょうか。そして、それは果たして可能なことでしょうか。

 イラク戦争で“衝撃と畏怖”作戦によって、米軍は完膚無き勝利を手にしました。しかし、その後の展開は予想だにしないものとなりました。今回の“衝撃と畏怖”作戦では日銀のアンシャンレジームが壊滅しました。日本はこれにより、期待に働きかける政策によってデフレ脱却にまい進するという道に突き進むことになります。これは、日本の中長期的な進路を左右する大きな賭けです。その賭けの結果が予想通りになるとは限りません。

 世界を突き動かすのは“期待”です。そして、“期待”はときに厄介な化け物になります。“期待”が化け物になったとき、歴史は大きく、そして予想を寄せ付けないような形で転換することになるのでしょう。

 

2013.4.7

サッチャー英元首相の死

 4月8日、英国元首相のサッチャー氏が死去されました。(仕事には全く関係がありませんが)この場をお借りして、個人的な哀悼の念を捧げたいと思います。

 

 20世紀以降の世界で最も偉大な政治家は、と問われれば、私は真っ先にサッチャー氏の名前を挙げるでしょう。日本ではサッチャー流リーダーシップは馴染みにくいものですが、しいて言えば大久保利通が相通じるところが多い政治家と言えるでしょう。

 

 英国では、サッチャー氏の死を悼む声と同時に、サッチャー氏に批判的で、その死さえも祝おうとする人々がいます。死してなお賛否両論を巻き起こすところが、サッチャー氏のサッチャー氏たる所以かもしれません。

 

 BBCのインタビュー映像で、ある女性が「彼女はこの国(英国)を駄目にした」とコメントをしていました。もし、彼女の希望通りに英国の政治史上にサッチャー氏が現われなかったら、この女性は今どのように感じていたことでしょうか。「強い意志を持った優れた指導者が現われなかったから英国は駄目になった」と感じていたのかもしれません。少なくとも、現在の英国が駄目な国だとは全く思いませんが、もしサッチャー氏がいなければ英国は本当に駄目な国になっていたのではないかと思います。

 

 偉大な自由の擁護者に、心から哀悼を意をささげます。

 

2013.4.9

 本日(2012.1.7)発売の月刊リベラルタイム誌2月号の特集に記事を寄稿しました(P30〜31)。アベノミクスでインフレ時代が到来したという前提で、そのときの投資戦略について記載しています。まあ、すぐにインフレが実現するかは疑問ですが、長期金利が本格的に上昇し始めると様々な問題が生じてくるので、長期金利の推移をみながら投資戦略を立てましょうという内容です。ご興味のある方は是非どうぞ。

 

2012.1.7

市場はいつも正しいのか

 前回からかなり日が経ってしまいました。

 前回は、大統領選の予測市場を例にとって、市場が優れた予測能力を持っていること、その予測能力は市場参加者が持つ情報と信念を市場が効率よく集約するメカニズムから生まれていることを見ていきました。それでは、市場はいつも正しいのか、というところが今回のテーマです。

 前回添付したIEMの価格推移を見てみると、2012年の8月〜9月に、オバマ候補の当選確率が急上昇しています。まだ、1カ月以上の選挙戦を残し、またテレビ討論会も行われていないときに、オバマ候補当選の確率は80%を一時的に超えています。その後、テレビ討論会でのロムニー候補の健闘などもあり、オバマ候補当選確率は元の60%強の水準に戻りますが、この動きは明らかに市場の行きすぎによるものと見られます。

 世の中には予測のつかないことがあります。オバマ候補がいかに堅実であるとしても、致命的な失言をしてしまう可能性はゼロではありませんし、急病にかかって健康問題が発生するかもしれません。あるいはオバマ候補への支持を急減させるような突発的な出来事が起こらないとも限りません。支持率に大差がなく、まだ選挙戦の最終盤を残しているのに当選確率80%はいくらなんでも行きすぎです。

 なぜこのような行きすぎが生じるのでしょうか。市場では、人々は常に他者に先んじようとしています。オバマ候補優勢の中で選挙戦も残りわずかとなったとき、ある投資家(たち)が「オバマ再選で決まりだ」と踏んで『オバマ候補当選』取引を積極的に買い出したのでしょう。それが、オバマ候補優勢とみる他の投資家の焦りを誘い、買いが買いを呼ぶ展開になったものと推測されます。市場には、こうした正のフィードバック作用が強く働いています。

 この正のフィードバック作用こそが市場を不安定にさせる最大の要素です。

 予測市場の例では、この行きすぎはすぐに是正されています。結局、60%強の水準が適正な水準だったのだと思います。

 詳細に分析をすればオバマ候補が優勢であることは分かります。ですから『オバマ候補当選』取引の適正価格は50%以上です。しかし、80%は明らかに行き過ぎですから、その間のどこかに自ずと落ち着くべき水準というものがあるはずです。

 市場の参加者が冷静さを維持し、本来の適正水準を探ろうとする動きが続く限り、市場は一時的な行きすぎを自ら是正することが出来ます。

 しかし、予測市場ではある程度適正な水準を探ることが比較的容易であるとしても、すべての市場がそうだというわけではありません。

 

バブル発生のメカニズム

 市場の適正水準を知ることが可能であるのか、いくつかの代表的な市場を例に見てみましょう。

 まずは債券(国債)市場です。債券市場は、主要な市場の中で、最も適正水準を推測しやすい市場です。長期国債金利の適正水準を測るやり方はいくつかありますが、少し単純化してしまうと、適正長期金利≒予想実質成長率+予想インフレ率+財政プレミアムです。実際には、金融政策の現状と今後の見通し、流動性プレミアムなども影響するのですが、ここでは金利形成の理論的背景をみることが目的ではないので、ごく単純化したままで話を進めましょう。

 もちろんこの単純化した前提のもとでも、予想実質成長率や予想インフレ率、財政プレミアムは分析する人によって水準が異なってくるでしょうから、適正と思われる長期金利の水準も分析者によって異なります。しかし、適正水準を推測する手掛かりがあり、また、分析者によってその水準が全く異なったものとなってしまうということが起こりにくい市場ということは出来ます。このような性質を持つ債券市場ではバブルは起こりにくいと考えられます。

 もっとも、市場参加者に多様性が欠けている場合はその限りではありません。たとえば、現在の長期日本国債の金利水準(0.7〜0.8%)は本来の適正水準よりも低いのではないかと私は考えています。日本の財政の脆弱性がプレミアムという形で全く織り込まれていないからです。通常、先進国では財政プレミアムは比較的小さめですし、人によって適正と考えるプレミアム水準にも差があるでしょうが、銀行や国内機関投資家以外の多様な投資家が金利形成に大きく影響を与えていれば、日本の長期金利の水準はもう少し高めとなっているはずです。そして、それこそが本来の適正な水準であると考えられます。

 次に株式市場はどうでしょうか。株式市場は、もともと適正と考えられる水準に大きな幅があり、分析者によってかなりの差がみられる市場です。

 株価の理論価格は、企業が生み出すと予想される将来の税引後利益を、リスクプレミアムを含んだ金利で割り引いた現在価値です。ただし、将来の企業収益の予想、とりわけ遠い将来においての予想は極めて困難ですし、リスクプレミアムの水準もよく分かりません。

 代替的な手段としては、予想PER(この場合の予想は1〜2期先の予想)で10〜15倍などというような見方があります。しかし、計算の基となる予想EPS(一株当たり当期利益)の水準はときとして大きく変わることがありますし、市場がその企業をどのような企業とみているかによってPERの水準自体も大きく異なってきます。景気循環に左右されやすい企業と見られれば10倍以下で取引されますが、高成長企業と見られれば25〜30倍、もしくはそれ以上で取引されることもあります。

 個別の企業と比べると、市場全体で見れば適正と考えられるPERの幅は多少狭まります。しかし、仮に10〜15倍が適正だと見られているとしても、上昇局面において15倍で頭打ちになることや、下落局面において10倍で底打ちになることが保証されるわけではありません。市場のムード次第で、適正と考えられるPERの水準は変わっていくからです。

 要するに、株価において適正な価格というのは有って無いようなものなのです。今の相場環境であればいくらぐらいが居心地のいい水準かというのはあっても、相場環境が変わればそうした水準感はいっぺんに吹き飛びます。

 こうした株式市場では、相場のムードが変わるとそもそも適正と考えられる相場水準が切り替わり、その時に上がるから買われる、もしくは下がるから売られるという正のフィードバックが働いて、思いもかけないほどに価格が変動することが起こりえます。

 為替もまた適正価格が測りづらい市場です。長期的には、購買力平価に沿って動くと言われますが、購買力平価は定義によって水準が大きく異なります。また、短期的には購買力平価は相場変動にほとんど影響を持たず、その時々の市場のテーマによって、貿易収支や経常収支を材料に動くこともあれば、金利水準で動くこともあります。

 一般に、株式市場や為替市場のように、適正な水準というものが測りにくく、人によって適正と考えるレベルが大きく異なる市場では、あるべき水準に戻っていくという機能が働きにくいので、バブルが発生しやすいと言えるでしょう。

 1980年代後半の日本株のバブルのときには、PERは60倍あたりまで取引されていました。どんな理屈もそんな株価水準を正当化できるとは思えないのですが、当時はまだまだ株価が上がるという見方(というよりも欲望)が大勢で、冷静に適正水準を見極めようというような投資家はほぼいませんでした。いたとしても上がり続ける相場を前に、淘汰されるか、仕方なくついていくしか生きる道はなかったのです。

 市場は、そこに参加する人々がもつ情報を集約するものです。人々が共同幻想に陥って誤った情報に振り回されれば、市場もまたそれを反映します。欲望が信念にとって代われば、市場はその欲望を反映します。逆もまたしかりです。バブルがはじけて相場が下落し続ければ、恐怖が投資家の行動を支配し、市場はその恐怖にゆがめられた投資家心理を写し出します。

 市場は人々や社会の鏡です。市場の正しさは、冷静に適正な価格水準を追求しようとする多様な投資家が市場を支配するときにのみ保証されます。人々が欲望や恐怖に支配されているときには、市場はただ理不尽に荒れ狂うだけです。

 

市場は社会の鏡でしかない

 市場は優れたメカニズムを持っています。しかし、市場の質は参加者の持つ情報や信念に規定されます。参加者の質が低ければ、市場の果たす機能はより限定的になります。市場は人々の、ひいてはその社会の鏡であるということは、市場で長く過ごしてきた私にとっては当たり前のことなのですが、一般的にはそのように認識されることはあまりありません。

 一般に、バブルは市場が生み出すモンスターのようにとらえられます。しかし、バブルは人々や社会が生み出すものです。最近では市場が格差を生むという見方が大きな影響力を持っていますが、格差は企業を取り巻く環境や社会が生み出すものです。市場が近視眼的な経営を生み出していると言われます。ですが、それは近視眼的な投資家が支配的となり、経営者もまたそれに振り回されているからにすぎません。市場と長期的な視点からの経営は決して相反するものではありません。市場が近視眼的経営を生み出しているように見えるなら、それは社会や企業が近視眼的になっているのを市場が映し出しているだけなのです。

 

市場を否定しても何も解決しない

 市場が社会の鏡であるなら、市場を否定することは何も生み出しません。

 たとえば市場をなくすことによってバブルを防ぐことができるでしょうか。バブルを、値上がり期待によって資産価格が非合理的な水準まで上昇することと定義するなら、自由な取引が妨げられていれば値上がり益を得ることもできないので、確かにバブルは起きません。しかし、バブルを、資源の配分が著しく歪められ、持続的な成長を実現できない状態だと定義すれば、市場がなくてもバブルは起きます。旧ソ連で、ダム建設や兵器製造、宇宙開発などに資源配分が集中し、人々の生活を豊かにする日用品や消費財の供給が著しく損なわれたこと、そしてそれが旧ソ連の長期的な経済成長を著しく阻害したことを見れば、そのことは明らかでしょう。

 では、市場を規制すればいいのでしょうか。それも違うと思います。規制によって市場参加者の行動や判断にバイアスがかかったり、多様な投資家の参加を阻害すれば、市場の機能は失われ、歪んだ価格形成が促されるだけです。

 規制によってバブルを防ぐとか、格差の拡大を防ぐというのは、表面的にに部分解を求めることでしかないと思います。

 バブルを防ぐ効果的な規制が果たして存在するのかは疑問ですが、仮にあったとしても、バブルを防ぐために別の歪みが生じ、それが別の副作用を生みます。市場を規制することで格差が是正されるとは到底思えませんが、仮にそのような規制があったとしても、資源配分の歪みを通じて別の格差を生み出すだけです。(派遣労働規制などはその最たるものでしょう。結局雇用の増進には全く役に立たず、正社員になれるものとそうではない者との格差を固定化する結果につながっています。)

 何か問題が起きると「市場を規制せよ」という声が上がるのは、経済や市場がもつ複雑性を全く無視する考え方です。経済や市場は、全体を構成する各要素が相互に影響しあう複雑系です。そのために、規制がその直接の目的を果たすことができないということが頻繁に起こりますし、複雑な相互作用の中で予想外の副作用を引き起こしたります。

 なによりも、問題が起きれば規制にすがればいいという安易な依存心を生み、自助努力や切磋琢磨といった要素が失われる危惧があります。こうした精神的、文化的な影響ははっきりと測定できないために多くの場合見過ごされがちですが、本当はもっとも重要な規制の副作用と言えるかもしれません

 もちろん、バブルを防いだり、防げなかったとしてもその影響を最小限にとどめたりする努力は必要です。しかし、それは短略的に市場を規制することで達成できるわけではありません。格差を是正することは、社会の安定を維持するうえで極めて重要です。しかし、それは市場を規制することによるのではなく、セーフティネットを充実させ、再雇用・再挑戦の機会をより多く作り出すことで実現すべきです。

 市場に関しては、むしろ市場の歪みを正し、市場がその機能をいかんなく発揮できるように制度を整備するというのがあるべき姿だと思います。もちろん、制度だけしっかりしていても、市場の質を保証することはできません。市場関係者が、多様で合理的な市場を形成するために不断の努力を続けることが肝要です。

 

民主政治と市場経済の相克

 しかし、残念ながら、市場を巡る議論は極端に偏りがちです。片や、今は流行りませんが、市場は絶対であり、市場こそが正しい答えを導いてくれる唯一のものであるという考え方があります。片や、市場はバブルや格差を生むものだから規制すべきであり、否定すべきものであるとする考え方があります。

 どちらの考え方も、人間の非合理性を忘れた議論です。市場も、市場に拠らない他のメカニズム(政治など)も、すべては合理的とは到底言えない人間と社会が作り出すものなのです。ですから、市場は必ずしも合理的とはいえませんし、その市場を否定したところで問題は解決されません。歴史的に見て、市場の失敗よりも、政治の失敗の方がより愚かしく、より悲惨な結果をもたらしてきたことを忘れてはいけません。

 市場の機能を最大限に活かしつつ、市場には果たせない機能を政治や社会が補完していくという考え方は、そうした前提のもとでは最も妥当な議論だと考えられます。ですが、実際には必ずしも受け入れられていないようです。大変優れたトラックレコードを持つ北欧モデルがまさにそうなのですが、日本では北欧モデルが持ちだされるときは福祉型システムとして紹介され、その市場主義的な側面にはスポットライトが当てられません。

 市場を巡る議論が迷走する背景には、政治と経済、とりわけ民主政治と市場経済の間に横たわる深い溝があるように思えます。端的にいえば、政治においては、経済は単なる政争の具(もしくは既得権益の戦い)と化し、経済や市場に対する理解を欠いたままに政策論議がたたかわされているのです。

 もちろんそれを克服している国(北欧諸国など)もありますが、そうではない国が大半です。日本も、もちろん後者に分類されます。私は、このような民主政治と市場経済の相克こそが現代社会が抱える最大の課題ではないかと考えており、少なくとも大いに議論すべきテーマだと思っています。

 というところで、またまた長くなってしまいましたので、今回はこのあたりにして、また続きは別の機会に譲りたいと思います。

2013.1.6

米国大統領選挙

 

 11月の6日に米国の大統領選が行われ、得票率わずか2.7%の差でオバマ大統領が再選されました。事前に予想されていた通りの接戦でしたが、最終的に当落を決める選挙人の数では332対206の差がつき、オバマ大統領としては狙った通りの結果になったと言えます。

 それにしてもオバマ氏への支持は4年前のように熱烈なものではなく、消去法的に選ばれたに過ぎないとの声も聞かれます。ロムニー候補が本来の穏健な保守中道路線を貫いていたならば、選挙に勝つことは十分に可能だったと思われます。しかし、右傾化する共和党の指名を勝ち取るために元々の主張を封印したり、修正したりしなければならず、それが本選挙に大きく悪影響を及ぼしました。

 共和党の指名を勝ち取るためには保守派の主張に迎合しなければならず、しかしそれでは本選挙には勝てない。現在の共和党が抱えるそんなジレンマが浮き彫りになった選挙でした。

 

正確に予測されていたオバマ再選

 

 さて、選挙の直前には「支持率が拮抗している」ことが報じられ、一部メディアでは支持率が並んでいるとか逆転しているとの報道もありました。専門家の中には「投開票してみなければどうなるか分からない」と分析する人たちも大勢いました。

 しかしながら、私はこの選挙はかなり早い段階で決着がついていたと思います。選挙の少し前、知人に選挙結果をどう予想するか聞かれたときも、私は自信を持って「オバマ再選でほぼ決まり」と答えました。

 なぜ私がオバマ再選に自信を持っていたか種明かしをすると、電子予測市場が一貫してオバマ氏の圧倒的優位を示していたのです。その差を見る限り、ロムニー氏が逆転するには、すべてのテレビ討論会でオバマ氏を圧倒するだけでなく、オバマ氏から何らかの致命的な失言を引き出すというようなことが絶対に必要という状況でした。実際の討論会ではロムニー氏も健闘したのですが、決定打を打つことはできず、その時点で「勝負あり」だったわけです。

 では、電子予測市場の予測をそんなに鵜呑みにしてもいいのでしょうか。

 私は、電子予測市場のパイオニアであるアイオワ電子市場(IEM)が始まってから(1988年の大統領選以来)ずっと電子予測市場に注目し、大統領選の度にその市場動向を詳しく見てきました。各種の世論調査を精査し、あらゆる専門家の分析を比較しましたが、その結果もっとも信頼できるのが電子予測市場の動向だったのです。今回の大統領選の結果を見ても、その予測精度の高さには目を見張るものがあります。(添付ファイルをご参照ください。)

IEM価格推移.xlsx

 もちろん電子予測市場にも誤差はあります。ですが、今回のように事前に大きな差がついているような場合は、かなり安心してどちらが勝つかを口にすることが出来ます。

 電子予測市場には、IEMの他にもアイルランドのイントレードなどがあります。このイントレードはきめ細かくいろいろな商品が取引されています。ちなみに「大統領=オバマ」+「上院=民主党」+「下院=共和党」というセット商品もあり、こちらも高い確率で取引されていましたが、やはりその通りの結果となりました。

 このイントレードにはかつて「サダム・フセインが逮捕される」という商品が取引されていて、その商品の価格が急上昇した数日後に本当にフセインが逮捕されたという事例もあります。(ただし、オサマ・ビン・ラディンに関しても同様に取引されていましたが、こちらはそのような先見性を示すことはありませんでした。)

 いずれにしても、市場が高い予測能力を持つことは確かなようです。ではなぜ、市場にはバブルのような愚かしい事象が起きるのかということを少し考えていきたいのですが、その前に「なぜ市場は高い予測能力を持つのか」という点を見ていきたいと思います。(すでに拙著「ランダムウォーク&行動ファイナンス理論のすべて」で触れている内容なのですが、今回はさらに議論を先に進めたいので、とりあえずもう一度まとめておきます。)

 

なぜ予測市場は予測能力が高いのか

 

 電子予測市場がどんな世論調査よりも信頼できるというからくりの一つは米国大統領選の仕組にあります。

 米国の大統領選では、各州に割り当てられた選挙人を一人でも多く獲得した候補者が勝ちます。選挙人がどちらの候補者に投票するかは各州での得票によって決まるのですが、多くの州では勝者総取り(ウィナー・テークス・オール)方式を採用しています。

 つまり、大統領を決めるのは、得票総数ではなく、選挙人の多い重要州で相手を上回れるかどうかなのです。

 また、民主党と共和党のどちらが優位かあらかじめ明確な州が多くあります。ニューヨークやカリフォルニアでは民主党優位、テキサスやジョージアなどでは共和党が優位です。この地力では両党に大きな差はありません。したがって選挙の行方を左右するのは、スイング・ステートと呼ばれる、どちらにでも転ぶ可能性のあるいくつかの激戦州なのです。これら5〜7の激戦州を、たとえわずかな差でもより多く抑えた方の勝ちです。

 最終的には全国の総得票率が低い方が当選するということが頻繁に起こるわけではない(※)のですが、こうした仕組になっているため、大統領選では、州単位での的確な情勢分析と、それに合わせた効率的な選挙戦略が勝負の決め手になります。

 このような仕組を持っているため、米国大統領選では、単純な全国レベルでの支持率の動向は、勝敗を予想するのにあまり役には立ちません。

 大統領選の行方を予想するためには、民主党優位州・共和党優位州・激戦州という各州の色分け、州単位での支持率の動向分析、それをもとにした選挙人数の予測、そしてそうした選挙情勢に対して各陣営が適切な戦略で効果的なキャンペーンをしているかという様々な側面を詳しく見ていく必要があります。

 このような複雑な分析が必要となる大統領選の行方に関して、世論調査はあまり多くのことを語ってはくれません。そうした世論調査をただ追いかけるだけの分析も説得力を持ち得ません。それに世論調査には、そもそも情報の精度という問題が付きまといます。

 世論調査では、もうすでに投票先を決めていて、雨が降っても雪が降っても必ずその候補者に投票しに行くという人もいれば、なんとなく「今日の気分はA候補かな」くらいの気持ちの人や、実際には投票に行かない人の回答も含まれます。世論調査によっては、投票に行くかどうかということも併せて聞いているケースもありますが、基本的には確度の高い情報と確度の低い情報が混じってしまっていて、どうしても全体の情報の精度は粗くなってしまうのです。

 専門家の分析も必ずしも当てになりません。専門家といいながら、先ほど述べたようなきめ細かな分析をしている人ばかりではありません。マスコミの情報では、コメントを発する人がそこまできめ細かい分析をして言っているのかどうか分かりませんし、おそらくはそうした分析に基づかない情報があふれかえっているものと思います。

 また、分析に基づいた予測であっても、特定の個人の予測にはどうしても偏り(バイアス)が発生します。どんなに優れた専門家でも、その人特有の型、あるいは思考や分析のパターンがあります。選挙の予測の場合だと、その人の政治的な思想背景が微妙に予測に影響することもあるでしょう(これはパルチザン・バイアスと呼ばれます)。

 いずれにしろ専門家の予測は、精度が高いものから低いものまでいろいろあり、そして分析者個人のバイアスを含んでいます。そのなかから結果として当たる予測も出てくるでしょうが、事前にどの予測が的中するかを知るすべはまずありません。

 では、いくつかのタイプのすぐれた専門家をあつめて予測をさせるというのはどうでしょうか。これは、一般的に広く推奨されるやり方です。タイプの異なる優れた専門家を集めれば、個人のバイアスは薄められるかもしれません。異なる視点を持ち込むことで、より精度の高い分析も可能になるでしょう。

 こうした試みが大成功を収めるケースは少なくありません。しかし、いつも成功するともいえません。優秀な専門家を集めても、結局それぞれが我を張るばかりで建設的な議論にならないことはよくありますし、派閥などが作られて特定の意見がごり押しされるかもしれません。逆に対立を避けるために安易な妥協が図られ、足して二で割ったような結論が導かれることもあります。

 優れた専門家集団を有効に機能させるためには、様々な条件、とくに卓越したプロジェクト・マネージメントが欠かせないのです。

※直近では2000年に総得票数がゴア候補より少なかったブッシュ候補が勝っています。同じような事例は、それ以前には19世紀末にまでさかのぼります。)

 

市場のメカニズム

 

 これに対して、市場はとてもシンプルです。精度の高い情報を持っている人もそうでない人も市場には参加しますが、精度の高い情報を持っている人はそれだけ自信を持って市場に参加できます。精度の高い情報を持っていない参加者が明らかにおかしな価格を提示する場合、精度の高い情報を持っている参加者にとってはそれが大きな取引機会となりますので、そうした精度の低い情報は少しずつ淘汰されていきます。

 各人のもつバイアスも、様々なバイアスを持つ人が参加することで全体として薄まっていきます。意見の対立は、価格という一点に集約されますので、議論がまとまらないというような弊害もありません。そしてそれらの意見の優劣は、派閥だとか専門家の肩書だとかには左右されず、市場参加者の行動パターンによってのみきまります。精度の高い分析をし、自分の分析に強い自信を持つ参加者はそれだけ断固とした行動を市場で取るでしょうから、それだけ価格形成に大きく影響を与えます。

 市場では、取引の結果としての価格というたった一つのパラメーターに、市場に持ち込まれたすべての情報が集約されます。そして、その集約された結果としての価格が不満ならばまた新たな取引が生まれ、少しずつ価格が修正されていきます。このシンプルで柔軟なメカニズムが、玉石混交のおびただしい量の情報を見事に一つの価格にまとめ上げていくのです。

 特に重要なことは、市場への参加は、利益をもたらしたり、ペナルティーを与えたりするということです。予測を間違えればペナルティーを科されるため、市場の参加者は出来るだけ精度の高い情報を集めようとし、出来るだけ自分の政治信条やバイアスにとらわれずに客観的な見方をしようと努めます。会議では自分の肩書や立場を守らなければならない人たちも、市場ではそうしたことに構ってはいられません。口では自信満々に自説を展開する人も、内心の不安があれば市場では断固とした行動はとれません。

 こうした実際の利益とペナルティーの存在が、情報を選別し、異なる意見を集約するという機能を市場に与えているわけです。

 

市場の情報処理機能

 

 市場の持つ不思議な機能の最たるものは、個々の市場の参加者が必ずしも正しい予測をしていなくてもいいという点です。たとえば、「オバマ再選」という取引で、オバマ氏を有利と見るバイアスが強い参加者は80%の価格を妥当だと考えます。一方でロムニー氏を有利と見るバイアスが強い参加者は40%を妥当だとします。両者の人数と確信度が同じくらいなら価格は60%くらいに落ち着くでしょう。前者のグループの方が人数が多く確信度も強ければ価格はもっと高くなります。

 異なるバイアスを持つ参加者がいる場合、それらが混じり合うことでバイアスが打ち消し合い、どの参加者よりも公平で客観的な答えが市場によって導き出されます。

 一人一人の参加者が正しい予測をすることを前提にしているのではなく、中途半端な情報や分析結果しか持たない参加者ばかりであっても市場は一番もっともらしい結果を導き出すのです。もちろん、賢明な投資家が多くなれば、それだけ市場の予測精度も上がることが期待できますが、それは必須の条件ではりません。

 市場価格はあくまでも市場に参加する人たちが持ち込む情報を集約するだけですから、その結果が必ず正しいものになると保証されるわけではありませんが、特定のバイアスがかかった個人の意見よりは優れたものになる確率が高いとはいえるのです。

 もともと電子予測市場の草分けであるIEMは、このような市場の予測機能、言い換えれば情報の集約機能を実証研究するためにアイオワ大学が開設したものです。そして、その実証結果は言うまでもありません。市場の予測能力は、各種の世論調査や、各種の専門家の分析よりも、精度が高いのです。

 こうした実証結果を踏まえると、市場は人々の持つ情報や分析、そしてそれに対する人々の信念を最も効率よく集約する仕組である、ということは明らかだと思います。

 

 それでは、市場はいつも正しいのでしょうか。ここからが本題なのですが、ちょっと前置きが長くなってしまったので、回を分けて続けていきたいと思います。

 

2012.11.12

10月20日に以下の書籍が発刊されました。

 

入門実践金融 証券化のすべて

田渕直也

日本実業出版社

 

 

ご存じのとおり、証券化はサブプライム問題で大きな打撃を受けました。「いまさら証券化?」と思われるかもしれませんが、証券化そのものはなくならないと思います。本書では、証券化のそもそもの意義は何か、なぜ、どのようにして証券化がサブプライム・ショックを引き起こしたのか、証券化のリスク管理はどうあるべきかといったサブプライム後の問題意識を踏まえた新しい証券化の実務書となっています。

 

ご興味のある方はぜひ見てみてください。

東洋経済新報社の雑誌『オール投資』が10月15日号をもって休刊となります。

 

私は2009年ごろから、行動ファイナンスの紹介、それを踏まえた投資テクニックの伝授、あるいは債券市場や金利市場の見方などの特集記事の執筆などでお付き合いが始まり、その後は「田渕直也の追跡!還流マネー」、「金融市場アウトルック」と立て続けに連載コーナーをいただいていました。私はもともと銀行のトレーダー出身なので、マーケットに関する分析や情報を発信する機会を持てたことは大変ありがたく、今回の休刊は誠に残念な限りです。

 

株式市場の低迷で、投資専門雑誌は厳しい環境のようですね。その株式市場は、まだまだ復活が見通せなさそうですが、どんな市場にもチャンスはあるものです。とはいえ、私の仕事の方も、今後はますますリスク管理寄りになっていくのではないかと思われます。

 

2012.10.01

 若干古い話で恐縮ですが、東洋経済の2012年新年号で国債破綻に関する特集があり、私もインタビューを受けました。1時間+お昼ごはん分喋ったのですが、記事になったのはほんのわずか、しかも本旨にほとんど関係ない部分ばかりだったので(まあ、そんなものでしょうが)、ここで改めて概略を記載しておきたいと思います。テーマとしては既に様々に議論されているものですが、中にはかなり混乱した論調も見られるので、論点を整理するうえで参考にして頂ければと思います。

 

 まず、先に結論から示しておきます。

 日本の財政が破綻するかどうかについては、決して可能性は無視できないとは思いますが、今の時点で断定的なことを言うのは時期尚早だと思っています(この理由は後で述べます)。ちなみに、この場合の破綻とは、文字通り国債の元利金支払いが滞る事態に加えて、ハイパーインフレ、預金封鎖と特例的な資産課税(要するに資産の没収)などによる実質的な債務削減も含めるものとします。

 次に、財政危機が起きるかどうかということでいえば、起きるかどうかではなく、いつ起きるかの問題だと考えています。ちなみに、ここでは財政危機はとりあえず「国債への信用不安が起き、国債金利が急騰する事態」としておきましょう。

 

財政破綻の可能性は数字では測れない

 日本の国家債務残高のGDPに対する比率は昨年末で212%(OECDより)です。資産を除いた純債務残高ベースで見ても128%(同上)あります。これは持続不可能な水準に見えます。

 もっとも、こうした数字だけの議論は危険です。ギリシャなどは前者の数字では日本よりも良く、スペイン・イタリアはどちらの指標でも日本よりだいぶ良好です。だから日本は危ない、となりがちなのですが、単純にそう考えるのは早計というものでしょう。たとえばナポレオン戦争後と第二次世界大戦後のイギリスは債務残高ベースで現在の日本よりもはるかに悪い状況でしたが、破綻もせず、ハイパーインフレも起きませんでした。これらの事実が示しているのは、国家の破綻は必ずしも数字上の債務比率に応じて発生するものではないということです。(自己資本比率やデット・エクイティ・レシオは企業の信用評価で重要ですが、だからといって機械的にその数字に応じて企業破綻が発生するわけではないことと同様です。)

 イギリスの二つのケースでは、一時的な要因(戦争)によって債務残高が膨れ上がったものの、その後は財政の均衡状態がほぼ保たれ、経済成長と緩やかなインフレによって税収が伸び、長い時間をかけて債務比率が低下していきました。そうしたことが可能であるという信認が得られている場合は、たとえ数字が悪くても財政は破綻せず、財政危機も起きません。問題はそうした信認が得られるかどうかなのです。では、日本の場合はどうでしょうか。この点については、順次触れていきたいと思います。

 

財政破綻をめぐる間違った議論

 さて、財政破綻論をめぐってよく聞かれるのは、①日本には1,500兆円弱に上る家計金融資産がある、②国債の90%以上は国内で消化されている、③日本は経常黒字国であり、対外純債権国である、だから財政は破綻しないという議論です。

 これは、先ほどの数字だけの議論以上に危険で間違ったロジックだと言えるでしょう。これらのロジックの誤りは、国家財政を一家の家計に置き換えた単純な擬人化から来ているものと思われます。

 ①と②は一体のものですのでまとめて議論しましょう。あまりに基本的なことですが、家計と国家は別の経済主体です。家計がいくら資産を持っていても、それで政府の債務が消えることはありません。家計資産は国家のものではないからです。預金封鎖をして資産課税で没収すれば国庫に移転しますが、それは形を変えた破綻処理です。家計資産が財政を支えられるのは、国債への信認があり、家計が自らの判断で国債を買う場合のみです。

 現実には家計資産は銀行や保険会社に預けられ、これら金融機関が国債を買っているわけですが、それでも同じロジックが成り立ちます。金融機関は国家とは別物です。金融機関は自らの判断で国債を買うかどうかを判断しますので、やはり国債への信認がなければ国債は消化されません。国内の金融機関が国債を買っているから財政破綻は起きないというのは論理として成り立たないのです。第二次大戦後の日本では国債の保有者はほぼ国内投資家だけでしたが、やはり実質的な破綻は起きています。

 もちろん、いままで結果としてこうした要因が国債の需給を支えてきたのは事実です。家計はただひたすら銀行に預金をし、銀行はただひたすら横並びで国債を買ってきました。家計は、数々の銀行破綻を経験した今でも、(少なくとも大手銀行の)預金が毀損するというリスクを現実のものとしては感じていません。金融機関は、他に投資先がないという理由からか、あるいはサラリーマン的思考、集団思考、横並び志向などにより国債のリスクを見ずに投資しています。ちなみに、規制上も、また多くの金融機関の内部管理上も、国債の信用リスクはリスク管理の中で考慮されていません。こうした諸要因が国債に対する一種の疑似的な信認として機能していたといえるでしょう。

 こうした行動パターンが変化する兆しは今のところはっきりとは見られません。実際に危機が起きるまで、家計も金融機関もその行動パターンは全く何も変わらないかもしれません。ですが、これらの要因は今まで財政危機が起きなかった説明にはなっても、これから財政危機が起きない理由とはなり得ないものなのです。

 疑似的なものであれ、実態的なものであれ、何らかのきっかけで国債に対する信認が崩れれば、銀行なども自らを守るために国債を売らざるを得ず、しかも一斉に横並びに売ることになるでしょうから、国債暴落に拍車がかかり、危機を一層拡大させることになるでしょう。そして、国債の価格下落は家計資産を毀損しますから、豊富な家計資産が政府の債務残高を支えるという構図自体が消滅します。家計資産があるから財政は大丈夫というのは、幻想でしかありません。

 もっとも家計資産が銀行・生保を通じて国債を保有するというメカニズムには、危機の発生確率を抑える働きがあります。だれもがリスクを見ていないので、危機が発生するきっかけがつかめないからです。しかし、その代償として、いったん危機が起きたときのマグニチュードを大きくします。リスク=発生確率×その時の損失額とすれば、結局リスクの総量自体は変わりません。

 さらに重要なことは、国家債務残高は現在も急速に増えており、どんなに楽観的に見積もってもなお数年の間は急速に増え続けるということです。それに比べて家計資産はそんなに増えないでしょうし、むしろ傾向として減っていく可能性が高いと思われます。この点をみても、家計資産が債務を支えるという理屈は論拠薄弱と言わざるをえません。(ここでは話を簡単にするために家計資産だけに言及しています。実際には、法人の資産の動向も重要ですが、議論の枠組みや結論は変わらないのでここでは省略します。また、政府債務は資産を差し引いた純額で見るべきという議論もあり、それはその通りで、正確な議論のためには各経済主体の資産と債務の動向を含めた資金フローの全体像を議論しなければならないのですが、そうしたところで慰められることはほとんどないので、これについても省略します。)

 次に③を見てみましょう。これも①②と同じですね。経常収支を稼いでいる主体はほぼ民間経済主体なので、税金で吸収しない限り債務を減らす減資にはなりません。ですから、経常収支が黒字だから財政破綻は起きないというのは論理が成り立ちません。1998年のロシア破綻を持ち出すまでもなく、経常黒字と財政破綻は本来関係のないものです。

 ただ、経験的には経常収支の赤字国が財政危機に陥りやすいというのもまた事実です。経常収支が赤字の国は海外からの資金に依存しなければならないため、資本逃避や売り浴びせなどに晒されやすく、それが危機のきっかけとなるからです。経常黒字国は、その逆で、危機のきっかけが起きにくいと言えます。ですから、これも日本が今まで財政危機に陥らなかった大きな要因と言えるでしょう。しかし、だからといって将来も危機が起きないとする理由にはなり得ません。とくに貿易収支が赤字化し、経常黒字が大きく減少している現状ではなおさらです。

 結局、①〜③の議論は、ただ「日本では財政危機が起きにくい構造がある」といっているだけで、今後とも危機が起きない理由については何一つ説得力のある説明をしていないことになります。

 

では危機は起きるのか

 以上、「今まで危機が起きなかったからといって、今後も起きないという理由にはならない」ことを見てきましたが、もちろんそれだけでは危機が起きると断定することはできません。

 今まで何度か触れていますが、結局、財政問題を左右するのは信認です。信認があれば危機は回避できるし、信認がなくなればいかなる理由を並べても危機は起きるのです。信認とは、日本がいずれ債務残高の膨張を抑えることができ、そして何年かかろうとも債務残高比率を低下させていくことが出来るという信頼感です。

 日本の財政問題をめぐる議論は、最終的にはこの一点に収れんしてくると思います。

 こうした観点からすると、日本の国民負担率(租税負担率+社会保障負担率)が40%弱とまだまだ低く、増税余力が十分あるので財政破綻は起きないという議論はとても重要だと思います。たしかに、消費税率を17〜8%にまで引き上げれば日本の財政はほぼ均衡します。法人税率の引き下げなど成長促進策を組み合わせることや、社会保障改革に時間がかかることを考慮に入れて20%強の税率が必要としても、欧州諸国などと同レベルになるだけです。机上の議論では、少なくとも財政収支を均衡させて、債務残高比率がこれ以上上昇するのを押さえることは十分に可能です。これに成長促進策や持続的な社会保障改革が加われば、かつてのイギリスのように時間をかけて債務比率を削減していくことができます。

 しかし、消費税率を一気に20%強にまで引き上げるのは景気への影響が大きすぎるため、現実的には段階的に引き上げていくしかないでしょう。問題は、それが本当に実現可能かというところにあります。

 大平内閣の一般消費税、中曽根内閣の売上税はいずれも世論の反発や政治的な反対勢力の抵抗によって頓挫しました。竹下内閣に至って、内閣の崩壊と引き換えにようやく消費税が導入されています。そして、高い支持率を誇った細川内閣の国民福祉税構想がつぶれ、自社さ連立政権(村山内閣と橋本内閣)では2%の税率引き上げが実現したものの、これが橋本内閣の退陣と自社さ連立政権崩壊の要因の一つとなりました。その後、菅内閣で消費税増税構想がつぶれるなど、十数年にわたって税率は1%たりとも上がっていません。

 日本の消費税は、わずかに税率を引き上げることさえ国論を二分し、政局が起き、内閣がいくつも潰れるものなのです。

 議会で法律が通らなければ、政府の徴税能力は絵にかいた餅にすぎません。どんなに素晴らしい技術や製品を持っていても、それを販売して収益にできなければ企業は成り立たないのと同じです。

 現在、野田首相は消費税増税に政治生命をかけると宣言しています。それでも増税を実現できなければ、野田政権は崩壊し、増税余力という財政信認の最後の砦は幻と化します。もちろん、現時点での政治的な情勢をみると分は悪いながら、増税が実現する可能性もないわけではありません。ですが、現在議論されている計5%の増税だけでは財政の均衡は実現せず、日本の債務残高の比率は上昇し続けます。法案成立を実現するために追加増税の道筋が絶たれたり、いたずらに政局の混乱を招いたり、あるいは増税に様々な条件を課せられたりしたら、結局不十分な内容で打ち止めとなってしまう恐れがあります。

 また、財政への信認を維持するためには、段階的かつ十分な消費税増税だけではなく、成長促進策や歳出構造の見直し、そして持続的な社会保障改革も不可欠です。現時点では、こちらについては全く手つかずといっていい状況です。

 そうした状況から見ると、日本政府は財政への信認維持のために必要な施策を何一つ実施できないか、出来たとしても「小さすぎ、遅すぎ」の施策しかとれないと予想するのが妥当だと思います。財政問題の本質は信認であり、それは、結局は一国の政治の危機対応力の問題なのです。

 先ほどイギリスが今の日本よりもはるかに悪い財政状況を乗り切ってきたという話をしました。しかし、イギリスの場合、いずれのケースも財政悪化の原因が戦争という一時的なものであり、構造的に財政収支が赤字だったわけではありません。今の日本の財政赤字は構造的なものです。それにイギリスの場合はそのあと着実な経済成長と緩やかなインフレが続きましたが、日本ではそのめどは立っていません。当時のイギリスの状況を今の日本に当てはめるのは難しいと言わざるを得ません。

 

危機が起きるタイミング

 それでは、日本の政治が問題解決力を示すことができないとして、危機はいつ起きるでしょうか。残念ながら、タイミングまで予想することは不可能です。

 信認は、何か突発的な事象により、ある時突然に崩れ始めます。たとえば、私は以上の議論のように日本の財政問題は危機的状況に向かわざるを得ないと見ていますので、すでに私の中では信認は失われています。こうした認識が市場を動かす大口の投資家たちにどう広まっていくかは、それとは別の議論です。とくに銀行や生保の場合は、分析に基づくというよりも、実際に市場が崩れ始めることによってのみ初めて動き、自分からは引き金を引こうとはしないでしょう。それでは何が最初に市場を崩し始めるのかは、正直分からないのです。

 一番分かりやすいシナリオは、消費税増税法案が廃案となり、外国人投資家が一斉に売りに回るというものです。しかし、もしかしたらそれだけでは銀行などに動揺が広がらず、一気に危機にまで至らないかもしれません。逆に、増税法案が成立しても、その内容によってはじわじわと売りが広がっていく展開になり、それが危機につながるかもしれません。

 経常収支が大幅な黒字の間は危機が起きるきっかけがつかめないとみるなら、まだ時間的余裕はかなりありますが、私としては、やはり消費税増税をめぐる議論の行方が一つの大きなターニングポイントになる可能性が高いと見ています。

 

(ちょっと長くなってしまったので、続きは次回とします。次回は、危機のシナリオやリスク管理上の議論などにフォーカスを当てたいと思います。)

 

2012年5月20日

危機のシナリオ

 まだ実際に危機が起きてもいないのに、その危機がどのようなものになるかを論じるのはやや気が早いかもしれません。この手の危機は一種のカオス的現象であるため、わずかな初期条件の差によって道筋は大きく異なるからです。なので、これから先は頭の体操の領域を出ないのですが、リスク管理の世界では頭の体操こそが重要です。

 まず、遠からず何らかのきっかけにより日本国債の金利が上昇し始めるとします。銀行の国債保有の平均的な持値と言われる1.2〜1.3%レベル(10年国債で見た場合)を超えてくると、銀行の売りがかさんで金利上昇に拍車がかかる可能性があります。一方で、生命保険の平均的な予定利回りである1.5%水準を超えてくると生保の買いが入ってくることが予想されます。こうした節目節目の攻防を経てさらに金利が上昇していくと、危機感が一気に広がり、政治においても危機対応の必要性が認識され始めるかもしれません。

 これはある意味でチャンスです。ここで超党派的な対応で財政への信認回復に必要な手段が取られれば、危機は危機のまま収束し、破綻には至らないでしょう。

 しかし、一般的に見て、危機は人々の対応を狂わせます。人は保身のため、あるいは政治的な思惑のため、または心理学でいうところの認知的不協和から来る事実誤認や自己正当化などのため、危機への対応を誤り、危機を収束させるよりもさらに悪化させがちです。これは、現在の欧州の政治状況を見ても明らかですね。危機は、危機が起きてから対応すると思わぬ失策が重なって解決することが難しくなるので、発生する前に対応することが鉄則なのです。

 その発生前の対応が望めない以上、危機が発生した時に正しい対応がとられると考えるのは、極めて希望的な観測といっていいでしょう。百歩譲って正しい方向に向かい始めたとしても、対応のスピードに欠ければ結局は後手に回ります。正しくスピーディーな危機対応は、普段から十分な頭の体操をし、心の準備が出来ている場合に初めて出来るのであって、危機が起きたときに突然出来るようになるというものではありません。

 危機に際して彗星のごとく優れたリーダーが現れたりすることを期待する向きもあるかもしれません。危機はしばしばヒーローを生みます。ただ、彗星のごときヒーローが本当のヒーローになるとは限りませんし、財政危機は根拠のないヒーロー待望論を悠長に待ってはくれないでしょう。結局、危機に対する正しい対応はとられず、人為的なミスや不作為が重なって危機がさらに拡大する可能性の方が高いということを認識すべきだと思います。

 

リスク管理の想定を超える事態は起きるか

 それでは、財政危機という場合、金利の上昇はどの程度のものになるのでしょうか。まずは、通常のリスク管理でどの程度の金利上昇が想定されているかということから見ていきましょう。

 過去5年(2007年5月〜2012年4月)のヒストリカルデータから、99%信頼区間の金利変動幅を計算すると、10年金利で見て、1カ月で0.3%、1年で1.05%という数字になります。これがバリュー・アット・リスク(VaR)などのリスク管理で用いられる一般的な予想最大変動幅です。ちなみに、今のような金利状況の場合、金利変動率に基づいて計算するとリスクを過小評価することになってしまうので、金利変動幅に基づいて計算をします。また、もう少しテクニカルな話をすると、VaRの計算では分散共分散法/ヒストリカル法とか、ルートt倍法/ムービング・ウインドー法とか、いろいろ計算方法があるのですが、ここでは一番リスクが大きく出たヒストリカル法、ルートt倍法に基づく数字を使うことにします。

 ちなみに、銀行が多くの国債を保有している銀行勘定における国債のリスクは、そもそも規制上、厳密な意味でのリスク計算の対象になっていません。ただし一応はアウトライヤー規制というものがあって、銀行勘定が抱える金利リスクが自己資本に比して過大な銀行は特別な監督を受けることになります。そのリスクの大きさを測る基準として一般に使われているのが、この1年間で1%強上昇するというケースにほぼ相当します。

 また、日銀は別途、金利が1%上昇すると金融機関にどの程度損失が出るかという推計を行っています。

 いずれにしても、現状では、これくらいの範囲での金利上昇であれば多くの金融機関にとって十分にコントロールが可能で、少なくとも金融システムを揺るがすような事態にはならないと考えられます。4月19日に発表された日銀の金融システムレポートでもそう書かれています。少しは心強く感じられるかもしれません。

 しかし、財政危機による金利急騰という場合、このVaR計算や様々なシミュレーションで用いられるレベルの金利変動幅を大きく上回る金利上昇が起きると考えるべきでしょう。参考となるのは、イタリア国債の利回り変動です。2010年末、3カ月ほどの間にイタリア国債10年物の利回りは1%強上昇しました。1%強というのは先ほどの1年間で1.05%というのと幅は同じですが、それが3カ月で起きるとすると先ほどのVaR計算における金利変動幅と比べてかなり大きな変動となり、正規分布を前提にした確率計算では0.00016%くらいの確率でしか起こらない事象ということになります。約16万年に一回しか起こらない出来事です。これがいわゆるブラックスワン、またはファットテールといわれるものですが、実はこの確率計算は、その前提が明らかに間違っています。

 通常のリスク管理では、このように過去5年とか、場合によっては過去最悪のケースとかを参考にして確率計算をするわけですが、いままで財政危機が起きなかったときのデータをもとに財政危機が起きたときの計算をするというはそもそも的外れです。しかしながら、存在しないデータに基づくリスク管理は極めて難しく、これが現実のリスク管理の限界となっているわけです。

 

カオスと自己増幅過程

 しかしながらリスク管理における最大の問題は、さらに別のところにあります。危機が一過性のもので終わる保証はどこにもないということです。実際には、何か危機が起きたときに、一回限りの問題として過ぎていくケースはむしろ稀で、一つの危機が別の予想できない事態を生み、危機が危機を呼ぶスパイラル的な構造が生まれることが多くあります。先述した危機のカオス的性質です。このようなカオス的なスパイラル型自己増幅過程は、現在のリスク管理の実務には全く取り込めていません。

 さて、銀行の中では、大手銀行は相対的に国債の金利リスクが小さく、地銀が比較的大きなリスクを抱えています。想定を超える金利上昇が起きた場合、地銀の中にはコントロールできない規模の損失を被り、経営基盤が大きく毀損するところも出てくるでしょう。また、先述の日銀金融システムレポートでは、より大きな金利リスクを抱えていることが推測される公的金融機関については触れられていません。このあたりも、想定を超える金利上昇によって大きな問題が発生する可能性があります。一見して健全であると見られる大手銀行も、地銀や公的金融機関に問題が起きるような状況でも果たして本当に万全でいられるでしょうか。

 さらに、財政危機によって国債金利が急騰する局面では、直接的に国債で被る損失だけでなく、副次的な損失が出てくることが予想されます。金利が急騰すれば景況感は一気に冷え込むでしょうし、株価が急落したり、貸し出しが焦げ付いたり、国債以外の債券に大きな損失が発生することも十分考えられます。そうした連鎖的反応が起きたとき、本当に金融システムが大丈夫とは誰も言えないでしょう。

 イタリアに話を戻しましょう。2010年の金利急騰の後、2011年夏には、ほぼ1カ月でさらに1%強の金利上昇が起きました。このときは、すぐに金利が下がり、上昇分のほとんどが帳消しになりました。ですが、年末に欠けて金利は再び上昇を始め、今度は3カ月ほどで2%以上の金利上昇となりました。結局、1年数カ月の間に累計で3.5%程も金利は上がったのです。事前のリスク管理の世界では決して想定されていない連鎖的な金利上昇が現実に起きたわけです。

 このようなリスク管理の限界は、それ以前のリーマンショックでもすでに露わになっています。そうした一連の事態を受けて、リスク管理の考え方は現在大きく変わろうとしています。簡単にいえば、とにかくリスクを大きめに見積もり、とにかく自己資本を厚めに積むということです。これは、「リスクを合理的に見積もって適切な自己資本を積む」という本来の意味合いからすると、リスク管理の敗北といっていい事態かもしれません。また、こうした見直しの方向性自体、様々な副作用が懸念されるところで、本当にワークするのか不確実な部分があると思います。

 いずれにしてもリスク管理は、万全なものではありません。だから無意味である、というつもりはありません。限界があるとしても、リスク管理なしの現代金融ビジネスはあり得ません。しかし、リスク管理の限界を知ることは何よりも重要です。リスク管理における本当の課題は、実のところ、こうしたリスク管理の限界がきちんと理解されていないという所にこそ有るといっていいでしょう。

 

長いプロセスの果てに・・・

 さて、このコメントを書いている現在、日本の10年物国債利回りは0.8%くらいです。財政リスクが全く意識されていない水準といっていいでしょう。欧州危機に関心が集まっている間は、どうしても日本国債に資金が集中しますので、金利上昇にはなかなかつながりません。それでも、市場の風向きがいつ変わるともしれませんので、危機のシナリオを続けることにしましょう。

 イタリアのパターンをなぞるとすると、10年金利はまず1%くらいは上昇し、2%弱の水準となります。この第一弾の動きはすでにリスク管理の想定を上回るスピードで起きますが、金利の上昇幅としてはまあ想定範囲内であり、一気に深刻な状況になるわけではないでしょう。これはいわば市場による警告の段階で、ここでどのような対応がとられるかによってこの先の道筋が変わります。ここで危機が収束すれば、金融システム全体を揺らすような事態にはなりません。そこからさらに連鎖的な金利上昇が起きて2%レベルを超えるかどうかが大きな節目になると思われます。

 さて、この先もイタリアパターンをなぞるとすると、金利上昇はここで終わらずに、何回か波が押し寄せるようにして金利上昇が加速されていくことになります。そうなると危機が危機を呼ぶスパイラル的な展開となり、予測不能な事象が次々と起きるようになるでしょう。そうなれば地銀や公的金融機関の経営があやしくなり、それでもなお正しい対応がとられなければ金融システム全体が動揺する事態にまで発展することになるでしょう。

 ここで参考事例としているイタリアの財政危機は、危機が発生してから時間がかなり経過している今でも、どう決着するのかは分かっていません。イタリアは実際には極端に財政状況が悪いわけではなく、EUの主要創設メンバーでもあるため、最終的にはEUの支援により何とか持ちこたえる可能性が高いと考えられます。しかし、スペインの状況がさらに悪化すれば不測の事態も起きかねないでしょう。

 日本で財政危機が起きる場合も、明日危機が起きて明後日には破綻、というように一気に決着がつく展開にはなりません。何回かに分けて波のような金利上昇が襲い、そこで様々な岐路に差し掛かります。最終的な破綻に至る道を回避する機会は多くあるでしょう。かといって、そこで正しい決断が下されるとは限りませんし、そもそも財政問題を片づける簡単な方策があるわけでもありません。危機は何年もかかる長いプロセスなのです。

 幾度も訪れる岐路で選択を誤り続け、最終的に破綻に至る可能性は、個人的には決して低くないと思います。ですが、それは長いプロセスの果てに最終的に行きつく先であって、今の時点で破綻するかしないかを議論する価値はほとんどないといっていいでしょう。

 しかし、残念ながら日本の財政破綻をめぐる議論は、この破綻するかしないかの二元論に陥っており、実際的な議論を阻んでいるように思えます。これではリスク管理としては全くの不合格ですね。

 国としても、各金融機関としても、各企業としても、そして各個人としても、財政問題では究極のリスク管理能力が問われます。ですが、リスク管理は「破綻か否か」という二元論の問題ではなく、起こり得る事象を冷静にあぶり出し、実際にそうした事象が生じたときに適切な行動が出来るように準備しておくものなのです。

 実際の危機は、そのカオス的性質のために、事前にシミュレーションしたとおりになることはまずありません。ですが、不測の事態への対応力は、「不測の事態が起こりうる」ことを認識しながらシミュレーションを繰り返していくことでしか養うことはできません。

 

 

 さて、こうして見ていくと、財政問題とは結局は政府のリスク管理能力の問題なのだということが分かると思います。そして、その政府のリスク管理能力への信頼感こそが、前回述べた「信認」なのです。

 現在の日本国債の金利水準は、「日本政府は、今は何もしていないし、何も決められないが、危機が起きれば適切かつ機動的な危機対応力を発揮する」というとても現実的に妥当とは思えない前提のうえに成り立っているレベルと言えます。実際には、明示的にそのように考えている市場参加者が多いわけではなく、様々な要因からたまたまこうした状況となっているわけですが、こと財政リスクという観点から見れば、その潜在リスクは完全に無視されています。

 誰もが積極的にリスクを無視して突っ走っているというわけではなく、消極的な判断の積み重ねの結果としてリスクが無視される状況に至っているのです。それは、通常のバブルとは違いますが、一種の疑似的なバブルといっても間違いではないでしょう。

 バブルは、いつ何をきっかけに破裂するかは分かりませんが、必ずいつかは破裂します。そして、破裂する時期が引き延ばされればされるほど、破裂時の衝撃は大きくなっていくものなのです。

 

以上

 

2012年6月3日

 6月26日、衆議院本会議で消費税増税法案が可決されました。野田首相が党内の激しい反対を押し切り、野党との合意によって衆院可決にまで持ち込んだことはやや予想外でした。あまりにもだらしない首相が続いていたので、政治生命をかけるという野田首相の決意を少々甘く見すぎていたかもしれません。

 早速海外からも野田首相のリーダーシップをたたえ、「決められない日本」からの脱却を囃す論調も見られるようになっています。たしかに野田首相は、政策課題にきちんと向き合うという点で、小泉元首相以来ようやく現れた首相らしい首相といえるかもしれません。

 しかし、一定の評価はされるべきではあるものの、民主党内反対派が事前の予想を上回るなど、野田首相にとっては限りなく敗北に近い内容だったこともまた事実です。

 

増税は必ずしも問題解決につながらない

 まだ参議院での審議を残していますし、紆余曲折がこれからもあると予想されますが、ここでは最終的に消費税増税法案が成立するものとして話を続けましょう。

 この増税法案成立で日本の財政問題が解消するかといえば、前々回にも述べたとおり、これだけでは全く不十分です。債務残高が急増するスピードが緩められるだけで、そのトレンドまで変えることはできません。つまり、今回の消費税増税は、せいぜい財政危機の発生を少しの間、先送りするだけの効果しかありません。

 そもそも、消費税増税だけで財政問題を解決するのは困難です。段階的な増税に加え、抜本的な歳出改革と社会保障改革、そしてなによりも持続的な税収増をもたらすための成長促進策が不可欠です。消費税増税はこれらとセットで行うべきというのは多くの識者が指摘している通りですが、ここでは消費税増税を先行させることの政治的リスクを指摘しておきましょう。

 巷でよく言われる「消費税増税が景気に破壊的なダメージをもたららし、かえって税収を減らしてしまう」というのは明らかに行きすぎた懸念です。1997年の消費税増税後、日本はデフレに陥り、結局現在の税収は97年以前の税収よりも大幅に減っていますが、それを「消費税を増税したために税収が減った」と決めつけるのはこじつけでしかありません。ですが、こうしたロジックは増税反対派にとっては強力な武器になります。

 消費税増税によって景気にダメージがあるのは事実ですし、今回の増税で財政不安、あるいは社会保障制度の持続性に対する不安が払しょくされて消費マインドが改善するという効果も期待は難しいでしょう。欧州危機が拡大し、日本経済に波及するリスクも考えられます。いずれにしろ、日本経済が停滞すれば、すべての責任は消費税増税に押しつけられ、増税推進派は選挙で手痛い敗北を喫することになるでしょう。

 そうなると、再び政界で消費税恐怖症がはびこり、つぎの増税はさらに極めて高いハードルを課せられることになります。今回は野田首相が1997年の消費税トラウマを克服しつつありますが、次も第二の野田首相が現れる保証はありません。

 つまり、今回の増税先行策がかえって将来の増税を難しくしてしまうということが政治的に大きなリスクとなりうるのです。

 

それでも増税が必要な理由

 では、増税抜きでの財政再建は可能なのでしょうか。

 小泉元首相とそのブレーンだった竹中平蔵氏の流れをくむいわゆる上げ潮派にいわせれば、経済成長を促進することで増税に頼らない財政問題解消が可能であるということになります。もちろん、机上の理論ではそうかもしれません。ただし、現在の日本は少子高齢化に企業の国際競争力低下が加わり、大きな構造圧力にさらされています。成長を促進すること自体がとても難しい課題なのです。

 これに関連して、デフレと円高が企業を苦しめているのだから、日銀の金融緩和によってデフレと円高を解消すればいいという議論もあります。これも議論としては成り立つにしても、はたして金融政策がどこまで効果を持ちうるかは実際のところ大いに疑問が残ります。この議論にも、やはり今の日本経済がさらされる構造的な圧力を軽視しているきらいがあります。

 私は小泉元首相のリーダーシップをとても高く評価しているのですが、財政政策に関しては、これらの点から上げ潮派に全面的には賛同できません。小泉政権時代にはあるいは筋がとおっていたのかもしれませんが、現在の状況で、成長(だけ)によって財政問題を解決するという政策論は現実味を失いつつあると思います。

 とくに、リーマンショック後、アンチ・ビジネスの風潮が大きな影響を持つようになっています。これは、日本だけに限らず世界的な現象ですが、とりわけ日本では、市場競争を忌避し、内に閉じこもり、政治的な再配分に過度に依存しようという傾向が強くなっているように思います。

 こうしたアンチ・ビジネス論、あるいは成長不要論の中で、経済成長が果たして人々の幸福に結び付くのかという問いかけがされることがあります。これは確かに重みを持つ問いかけですが、一方で成長がなければ経済は衰退していき、財政危機も回避できないという現実的な問題があります。本質的な議論を回避していると言われればその通りなのですが、財政危機が起きればより多くの人が不幸せになることを無視して議論をするのもまた机上の議論と言わざるを得ないでしょう。

 いずれにしろ、最終的に日本が財政問題を解決するには成長を取り戻すことが不可欠です。しかし、それには政策の方向性も世論もすべてを変えていかなくてはなりません。それには長い時間と労力がかかり、強力なリーダーシップを要します。そして、その間にも財政状況は刻一刻と悪化していくのです。

 同様のことが歳出構造の改革や社会保障改革についても言えます。これらも財政問題解決のためには不可欠なものですが、実現するには長い時間と多大な労力、そして政治的なリーダーシップが必要です。

 ですから、これらの改革を進めると同時に、時間を買うための消費税増税が必要なのだというのが私の意見です。逆にいえば、消費税増税は、歳出構造改革・社会保障改革、成長促進策のための時間を買う政策ですから、後者の視点が欠けた増税一本やりの政策もまた片手落ちだということになります。

 

 

 結局、消費税増税はいずれにしても不可避ですし、消費税先行策も何もやらないよりははるかにましですが、今回の対応だけでは問題解決に程遠く、今後の政局の展開次第ではその努力も全くの水泡に期してしまう可能性が多いにあるということだと思います。日本の財政危機発生は、少しは先延ばしされた感はありますが、それは単にタイミングの問題であり、リスクは依然として高いままと言わざるを得ないでしょう。

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